2005年9月17日、採択戦の失敗の総括に際して、
西尾幹二名誉会長が、自分に従順ではない事務局長・宮崎正治氏に
全責任を押し付け懲戒解雇しようと考えたことが始まり。
その目的の為に、教科書リライト問題、コンピューター問題、
中国旅行問題、「日本会議と生長の家」問題、怪文書問題……等を、
西尾氏は次々と繰り出しブログに連載したが、全て後付けの理屈に過ぎず、論理破綻した。
当初は、宮崎氏の解雇に反対する人は1人もいなかったが、
11月18日の臨時総会で、内田智理事が最初に反対の論陣を張り、
次いで新田均理事や、事務員から事情を聞いた勝岡寛次理事が反対に転じる。
これに新任の松浦光修理事が加わり、八木執行部に抗議する「四理事声明」が、12月12日に出される。
翌年1月16日の理事会で、西尾氏が名誉会長を退任、以降ブログで愚痴を書き散らし始める。
この時点まで、藤岡信勝副会長は西尾氏に追従、
八木秀次会長は、会長声明を出すなど調停に奔走していたが、
藤岡副会長によるサボタージュの前に混迷が続き、
2月27日の理事会で八木氏は解任、藤岡氏が辞任という形で、一旦決着する。
この時新たに会長になったのは、西尾氏の長年の友人で八木氏の解任に賛成した種子島経理事だった。
が、種子島氏は、西尾氏の走狗とならず、
自身の見聞と考察によって、会長には八木氏が相応しいと判断、
3月28日の理事会で藤岡氏と和解した八木氏が副会長に復帰、7月に会長に復帰すると思われた。
が、その直後、多くの怪文書が乱れ飛び、
西尾氏がブログで煽ると共に事態が再度紛糾、八木副会長への非難が集中する。
結局、4月末日に「四理事」と八木副会長、種子島会長が辞任、藤岡副会長が会を掌握する。
その後、事態に翻弄されていた新田均氏は種子島氏と邂逅、
情報収集と共に、一連の流れが見えて来る。
西尾ブログに実名で抗議を行い、自らもブログを作り詳細な経緯を書き始める。
<西尾氏は、文学的主観的なソースロンダリングが多く、
藤岡氏は実証的ながら意図的に情報を隠した部分が多かった為、
新田氏の実証的かつ詳細な記述が、最も信憑性が高い。>
唯一残る謎は、発信者不明の怪文書だが、
中川八洋氏が受信記録を控えているとの不確定情報もあったものの、
証拠が皆無なので、発信者の特定は出来ていない。
よって、怪文書の件は、怪文書を利用して会を混乱させ、
自分の気に入らない人材の排除を行った西尾幹二氏に最大の責任がある。
6月、八木氏ら六理事と宮崎事務局長を慕う事務員達は、
親しい人々や団体と共に新団体「日本教育再生機構」を立ち上げる。
7月27日に、著名人が多数参加した盛大なパーティー
「八木秀次さんと日本の教育再生を語る夕べ」が開催され、
「つくる会」からも小林正会長をはじめ関係者多数が参加した。
特に八木氏の後見人としては、屋山太郎氏と鍵山秀三郎氏が、巨大な存在と思われる。
団体としても「全日教連」「TOSS」「救う会」など、
歴史問題に限定された「つくる会」の規模を遥かに超える運動になることが期待される。
一方、八木派が去った後の「つくる会」は、
藤岡副会長が、まるで手配したかのように素早く理事を補充したが、何故か再び内紛が勃発した。
6月には新任理事小林正氏と統一教会との関係がネット上で糾弾された為、
次期会長は藤岡副会長が確実と思われたが、
7月2日の総会では、意外にも、その小林正理事が、つくる会歴史上最年長の73歳で会長に就任した。
その後も西尾氏は、8月15日には平田文昭氏の主催する集会で、安倍政権と日本会議を叩く等、
気炎を吐いていたが、布袋和尚氏や渡辺眞市議も参戦する小競り合いが延々と続く中、
大著『江戸のダイナミズム』出版と前後する形でブログを停止、戦線を離脱した。
日本教育再生機構は10月22日に正式発足し、八木理事長が陣頭に立ち、
タウンミーティングを全国各地で開催するなど、精力的な活動を進めている。
残る「つくる会」は東京支部がやや孤立気味だが、彼ら反八木派の姿勢は強固である。
その目的は、扶桑社の「人手と金」、全国の会員の「金」を得ることと思われるが、
私が見聞きした限りでは、それは不可能に近い。
内紛で一番残念なことは、東京支部の人々が教条的に硬直した抵抗を続けているせいで、
結果として岡崎久彦氏の暴走を許していることだ。一種の利敵行為と言えよう。
内紛の残した教訓としては、
元東大教授の自作自演に代表される「ネット上で自己を律することの難しさ」と、
つくる会という知的な団体の関係者にも関わらず、一度論破されたことを延々と繰り返す
「読解力の低さ」である。
特に後者は、左翼の偏向報道に引っかかる人を多く生み出し、言論自体の退廃化を招いている。